『白浪五人男』の統領、日本駄右衛門。
舞台では「遠州浜松生まれ」と豪快に名乗ります。
日本駄右衛門のモデルとされるのは実在した大盗賊 日本左衛門(浜島庄兵衛, 1719–1747) です。
弁天小僧が虚構の地名羅列で造形されたのに対し、日本駄右衛門は史実に裏打ちされた存在。今回は静岡県島田市・金谷周辺を中心に、その足跡を辿りました。
金谷宿の首塚(宅円庵)—「金谷をかけて宿々で」

*首塚*
日本左衛門は捕縛され、江戸で死罪に処された後、見付宿(現・磐田市)でさらし首となりました。
その首を愛人「おまん」が密かに持ち帰り、金谷宿の宅円庵に葬ったと伝えられています。境内の案内板には次のようにあります。

*案内板*
日本左衛門 首塚
義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り、生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。詮議の手が廻り、もはや逃げられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿(現在の磐田市)でさらし首になりました。
時世「押取の人の想い羽かさなりて 身に青網のかかる悲しさ」
金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。
👉 この首塚の伝承が、「盗みはすれど非道はせじ」という舞台の台詞に義賊の色合いを強めています。
見付宿・見性寺の墓
磐田市の見性寺には、日本左衛門の墓ががあり、今も大切に守られています。境内案内板には、左衛門の生涯が次のように記されています。

日本左衛門之墓(本名 浜島庄兵衛)
享保四(一七一九)年、尾張国上宿(愛知県)に産まれる。父友右衛門、足軽として尾州公に仕えたが、遠州金谷宿に移り御七里役を勤む。庄兵衛幼名を友五郎と云い、成長して十右衛門と称し、生来力強く五十人力と云う。
…
翌四年卯年の春、江戸の牢獄に移され、三月遠州見付宿に移され、同年三月十一日、町中引廻しの上死罪、見付宿三本松の刑場にて処刑される。庄兵衛二十九歳、波瀾万丈の生涯を閉じる。
当山墓地に身体埋葬、首は金谷宿宅円庵に葬ると伝える。
👉 首塚と墓が別々に伝わっている点は興味深く、伝承の重層性を示しています。
金谷の石畳と庚申堂
東海道金谷宿には、江戸の道を偲ばせる石畳が今も残されています。その入口の庚申堂には、次のような伝承が伝わっています。

*金谷坂の石畳*
東海道金谷の石畳上り口にある庚申塔は、夜盗に出る前に身支度をした所であるという伝承もあります。「見ざる・言わざる・聞かざる」の庚申さんと、夜盗に出る日本左衛門の組み合わせとは、いかにも洒落がきいたエピソードです。
👉 旅人の道と盗賊の出立ちが交錯する石畳は、虚実の境界を象徴するようです。
日本左衛門の堤防跡-「義賊と噂高札に」

*日本左衛門の堤防跡*
さらに島田市船木には「日本左衛門の堤防」と呼ばれる堤防跡が残っています。現地の碑文にはこうあります。

*石碑*
日本左衛門の堤防跡
江戸中期、義賊として名高い日本左衛門が庄屋の柴田惣兵衛宅に強盗に入ったが、毎年のように襲う水害で蔵の中は空っぽで目的が果たせなかった。実状を察した日本左衛門は何処からか人足を集め水除けの堤防を作って姿を消したが、村人は豊作を喜び感謝の印に、この堤を「日本左衛門の堤防」と名付け今日に至っている。
平成二十四年三月吉日 初倉郷土研究会 建立
👉 盗賊でありながら地域を救う姿は、舞台の駄衛門像と重なり、「侠気」を感じさせます。

*石碑裏から堤防を見る*
結び ― 虚と実の対照
弁天小僧が「江ノ島・鎌倉」といった観光地名を虚構的に羅列して造形されたのに対し、日本駄右衛門は実在の盗賊・日本左衛門の記憶を背後に抱えています。
- 首塚=さらし首から伝承へ
- 墓=地域に葬られた記憶
- 石畳=盗賊の日常と旅人の道の交差
- 堤防=地域に残した功績
虚と実、罪と義、破壊と創造――。その二面性が駄衛門を「豪快な親分肌」として観客に愛される理由でしょう。
白浪五人男の五人はそれぞれ異なる背景を持ちますが、日本駄右衛門の「実在性」と弁天小僧の「虚構性」を並べることで、芝居はより厚みある群像劇として立ち上がるのです。
【参考文献】
- 「日本左衛門首塚」案内板(島田市・金谷観光協会)
- 「日本左衛門之墓」案内板(瑞雲山見性禅寺、島田市金谷)
- 「日本左衛門の堤防跡」碑文(初倉郷土研究会、平成二十四年建立)
- 「東海道金谷宿石畳入口・庚申堂」伝承(『人物クローズアップ 日本左衛門』より引用)