河竹黙阿弥の代表作のひとつ「青砥稿花紅彩画」。
有名な浜松屋の場と、稲瀬川勢揃いの場だけが上演されることが多く、その場合は「弁天娘女男白浪」と表記されます。
また、五人の盗賊(白浪)が登場することから、通称「白浪五人男」とも呼ばれる有名演目です。
河竹黙阿弥が紡ぎ出した七五調の名台詞は、そのリズムのみならず、随所に地名などを掛詞(一つの言葉に二つの意味を含ませる)にして各登場人物の個性を表現するという文学的にも非常に優れた作品です。
素人役者が勝手に現代語訳したものですので、間違っている部分もあろうと思いますが、ひとつの解釈として楽しんでいただければ幸いです。
なお、気良歌舞伎の公演での字幕解説はYouTube気良歌舞伎チャンネルで公開していますので、併せてご覧いただければと思います。チャンネル登録、高評価もよろしくお願いします!
今回は弁天小僧の台詞です。
一文ずつ解説していきます。
さて、その次ぎは江ノ島の
「さて、その次に名乗るのは、江の島の」
※江の島:藤沢市江の島。「江島神社」がある。江戸時代までは寺院として弁才天を祀り、江島弁天または江島明神と呼ばれた(明治の神仏分離の際に祭神が改められた)。奉安殿に安置されている妙音弁才天は音楽・芸能の神様とされ、歌舞伎役者も参詣に訪れたという。
岩本院の稚児上がり
「岩本院の稚児あがりの俺だ」
※岩本院:江の島の寺院。宿坊(参詣者のための休憩・宿泊施設)としての機能もあった。江戸時代後期、神仏参拝を名目とした庶民の観光が増え、江の島は大変な賑わいとなった。明治7年、宿坊だったことを活かし、「岩本楼」として旅館を開業した。—「岩本楼」HPより—
※稚児:寺院に仕える少年。寺院では僧侶たちが美少年に身の回りを世話をさせ、性愛の対象にもなっていたことは公認の事実だった。弁天小僧が単に盗みのために女装しているのではなく、もともと男色の気配を持つ人物であることを感じさせる。
※上がり:その立場を卒業した、捨てたという意味。もちろん、今は盗賊になっている。
ふだん着慣れし 振袖から
「いつも着なれている振袖を着て」
※ふだん着慣れし:日常から振袖(女装)を着ているという意味。意図されているかどうかはわからないが、「気馴れ」、つまり、気が馴れる、女装した雰囲気が馴染んでいる、といった感触も受ける。
髷も島田に 由比ヶ浜
「髪も島田髷に結って」
※髷も:振袖と同じように髪も普段から島田髷に結っている。
※島田髷:若い未婚の女性が結う髷。名前の由来は、東海道・島田宿出身の大磯の虎御前(寿曽我対面の曽我十郎の恋人)が結っていたという説、もうひとつは、寛永年間に活躍した女形である島田万吉、花吉、甚吉の舞台での扮装に由来するという説もある。黙阿弥が意図していたのかは不明だが、どちらの説も歌舞伎につながっているのは面白い。
※由比ヶ浜:鎌倉の由比ヶ浜。髷を“結い”、と、“由比”ヶ浜を掛けている。
打ち込む浪に しっぽりと
「由比ヶ浜に打ち寄せる波のように、しっとりと色気をまとい」
※しっぽり:優しく、静かで、湿り気のある様子。艶やかな色気を醸し出している姿を想像させる。
女に化けて 美人局
「女の姿で、何人もの男を騙してきた」
※女に化けて:前述の「着慣れし」「しっぽり」という言葉と繋がっており、単なる女装ではなく、本物の女性だと誰もが騙されるほどの姿が脳裏に浮かぶ。また、古来から、狐が美しい女性に化けて、人を騙すという寓話を想起させる。前述の「しっぽり」は、狐の尾(しっぽ)と掛けていると考えられる。そう読み解くと、弁天小僧のイメージが毛色の美しい白狐にぴたりと一致するような気がしてくるのは筆者だけではないだろう。
※美人局:語源は、中国の「武林旧事」に書かれていた犯罪の名称「美人局」。娼婦が少年を誘い、後から現れた男がその娼婦を自分の妻や妾と偽り、少年から金品をだまし取る手口のこと。一方、日本では「つつもたせ」はもともとは「筒もたせ」と書き、博打で使われていた言葉で、サイコロ博打で細工した筒を使っていかさまをすることを指し、それが転じて、男女関係を利用した詐欺を、「美人局」と書いて「つつもたせ」と読むようになったと言われる。
油断のならぬ 小娘も
「隙あらば騙り取ろうと小娘を演じていたが」
※小娘:「油断のならぬ」は、男を欺く狡猾な存在を指す言葉。これに続く「小娘」は、無垢であどけない少女を想起させる語であり、両者の語感と意味の落差が際立つことで、聞き手・読み手に強い印象を与えている。
小袋坂に 身の破れ
「小袋坂で男と見破られてしまった」
※小袋坂:鎌倉七口(鎌倉七切通)と呼ばれる険しい道。「巨福呂坂」「巨福呂坂切通し」とも表記される。なお、鎌倉は三方を山に囲まれており、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて作った道が多く、それを「切通し」と呼んだ。
※身の破れ:正体が露見してしまったという意味。ここでの「身」は、弁天小僧が女装して演じていた「小娘」としての虚構の肉体=仮の身を意味し、それが「破れる」とは、化けの皮がはがれ、虚構が崩壊することを表している。また「見破られた」という直接的な意味も内包している。
さらに、「小袋」という言葉そのものが「何かを包むもの」であることから、「袋が破れる」=「隠していた中身が露呈する」という語感の連鎖と象徴性も感じられる。
※「小娘」と「小袋」:声に出して読むと「小」という頭韻が響き合い、「こむすめ」「こぶくろ」のリズムがリフレインのように繰り返され耳心地の良さにもつながっている。
悪い浮名も 龍ノ口
「悪い評判も立って、龍ノ口の」
※浮名:恋愛や情事にまつわる噂のこと。ただし、語源は「憂き名」であると言われ、もともとはつらい評判や悪名を意味する。ここであえて直接的に「噂」ではなく「浮名」という言葉を用いているのは、弁天小僧が色恋と詐欺を結びつけてきたことを、より含みのある語で印象づけるためだろう。
※龍ノ口:「浮名も立つ(=噂が広がる)」という成句と、「龍ノ口」という鎌倉の地名との掛詞になっている。龍ノ口刑場という処刑場があった場所であり、ここでは「罪を暴かれ、処刑の場へと近づいていく」という緊張感が漂っている。
また、「口が立つ(=弁が立つ)」という表現からは、弁天小僧が巧みな弁舌で男たちを騙してきた姿が連想される。同時に、浮名の「浮」という文字から「口に上る(=噂になる)」という慣用句も想起され、今度は世間の“口”が弁天小僧を断罪する構図が浮かびあがる。
この一節には「色と罰」、「評判と処刑」、「口説きと断罪」といった、弁天小僧の生き方そのものが凝縮されている。
※龍ノ口と弁才天:昔、悪行を働いていた五頭龍が、美しい弁才天に戒められて、行いを改め、弁才天と夫婦となり、山と化した。それが龍口山となり、口にあたる場所を龍ノ口と呼んだとの伝説がある。
土の牢へも 二度三度
「土の牢に放り込まれたのも、二度や三度ではきかない」
※土の牢:日蓮宗の開祖・日蓮は、龍ノ口刑場での斬首のために連行され、土牢に入れられたという。日蓮は処刑直前「江ノ島の方角から満月のような光が飛び来たる」という出来事によって奇跡的に刑の執行を免れたとされ、日蓮宗ではこれを「龍ノ口法難」と呼ぶ。その後、霊跡として、その地に建立されたのが龍口寺である。龍口寺には日蓮が入れられたと伝わる土の牢が残っている。
このように「土の牢」は日蓮が命を賭して信仰を貫いた宗教的聖地であるが、弁天小僧にとっては、罪を犯して幾度も放り込まれたきた場所である。神仏に救われた宗教者は一度だけ、一方で救いなき業を抱えた盗賊は何度も入った「土の牢」。信仰と堕落、光と闇の対比。さらには、日蓮を救ったとされる「江ノ島の方角からの光」は、弁天小僧の出自とも繋がっている。黙阿弥がどこまで意識していたかは定かではないが、龍ノ口法難を知る者には深い余韻を与える一節である。
※二度三度:直前の言葉を受けて、「土の牢へも二度三度入れられた」という意味となるが、次の一節「だんだん越ゆる鳥居数」にも滑らかに連続している。
だんだん越ゆる 鳥居数
「参詣の時、いくつも鳥居をくぐるように、悪事も重ねてきた」
※鳥居を越す:「狐は稲荷神社の鳥居を何度も飛び越えると稲荷大明神になる」という俗説から、年を重ねると、ずるくなり他人を騙すことに長けていくことのたとえとなった。前段の「二度三度」という言葉、そして「だんだん」という言葉とつながって、狐のように「女に化けて」悪事を重ねるごとに人を騙すことも上手くなっていったという意味が浮かび上がる。
※鳥居数:稲荷大明神になるために狐が飛び越える回数の意。経験、場数。参詣という神聖な儀式を、俗な悪行の比喩に転化して用いられているのは、黙阿弥らしい言葉の選び方である。なお、鶴岡八幡宮は一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居があり、参詣には三度鳥居をくぐることになる。
※「二度三度」「だんだん」:音読すると、にどさんど、だんだん、という濁音の反復が耳に心地よい。このリズムからは、弁天小僧が悪事を軽やかに立ち回る姿を想像させるかのよう。
八幡さまの 氏子にて
「八幡宮の氏子にも関わらず」
※八幡さま:武運・勝負の神として広く信仰される八幡神を祀る神社の通称。ここでは、鎌倉の鶴岡八幡宮を指していると考えられる。
※氏子:自らが住んでいる土地を守っているとされる「氏神様」に帰依し、守護を受ける人のこと。弁天小僧は自分は鶴岡八幡宮の氏子、つまり鎌倉に住んでいると言っている。
鎌倉無宿と 肩書きも
「悪事に手を染めた鎌倉の無宿者という肩書を持ち」
※無宿:江戸時代の社会制度における「無宿人」を指す。人別帳(戸籍のような管理帳簿)から除かれ、居住地・定職を持たず放浪生活を送る者を意味する。浮浪人・無頼・犯罪者予備軍と見なされた。
※鎌倉無宿:犯罪人などは出生地・縁の地を冠して、「〇〇無宿△△」などと呼ばれた。弁天小僧は生まれ国は鎌倉であることから「鎌倉無宿」という不名誉な社会的ラベルを貼られたということ。直前に、「鶴岡八幡宮の氏子」(=鎌倉在住)にもかかわらず、「鎌倉無宿」という肩書であるという二つの属性を同時に背負っている、アンビバレントな立場を示す。
※肩書きも:「肩書き」とは、本来、地位や職名など誇りある立場を表す言葉だが、ここでは、弁天小僧が、「八幡さまの氏子(神様に守られる存在)」であったはずの自分が、今や、「無宿(社会に見放された存在)」という烙印を押されているというアイデンティティの転落を示している。
しかし、弁天小僧は、この「鎌倉無宿」という肩書を、社会的な恥としてではなく、むしろ誇らしげに名乗っている。
島に育って その名せえ
「江の島に育った俺の名は」
※島に育って:ここでの「島」は、冒頭に登場している「江ノ島」。「育って」とあるのは、江ノ島が単なる出身地ではなく、「価値観や生き方が形成された場所」として示唆されている。稚児上がりの経歴=性愛と装い、弁才天信仰の地=芸能・女神・美、俗化された信仰観光地=享楽と虚構。弁天小僧の「美」「色気」「芝居性」「詐欺性」は、江ノ島で育ったものと読める。
※「しまにそだってそのなせえ」:音読すると、サ行(し・そ・せ)の繰り返しと間隔の均整によって、リズミカルな一節となっている。次のクライマックスの名乗りへと気分を高める推進力を感じさせる。
弁天小僧、菊之助
「弁天小僧菊之助だ」
※弁天小僧:「弁天」は弁才天(芸能と音楽、美の神様)のこと。「小僧」は本来、寺に仕える子ども=稚児であり、冒頭の「岩本院の稚児上がり」と対応している。つまりこの名前には、宗教、美、演技(詐欺)という弁天小僧の生き方が包摂されている。
以上、弁天小僧菊之助の台詞を解説してみました。
一語一語の意味を調べていくうちに、黙阿弥の言葉の選び方、配置、重層的な工夫に圧倒されました。しかも、七五調でリズムの良さもある。
黙阿弥がこの演目を書くことになった説は複数あるのですが、まず、最初に弁天小僧のキャラクターを練ったのは間違いないと思います。
この解説が、皆さんも、この台詞をもっともっと味わってもらえるきっかけとなれば嬉しいです。